|
|
|
|
長崎県内の遺跡情報をもっと詳しく検索することができます。 |
所在地:長崎県佐世保市瀬戸越町 指 定:国指定史跡
|
|
佐世保市を流れる相浦川流域に形成された標高90メートルにある洞窟の遺跡。発掘調査の結果、多くの細石器(さいせっき)と縄文土器が見つかっています。なかでも豆粒文土器(とうりゅうもんどき)は年代測定の結果約12,000年前のものと判明し、世界最古級の土器です。国内で土器が製作されはじめた頃の原点ともいえる縄文時代を代表する遺跡です。出土品は、重要考古資料として国の重要文化財に指定されています。 |
|
|
福井洞窟(ふくいどうくつ) |
所在地:長崎県佐世保市吉井町 指 定:国指定史跡
|
|
佐世保市を流れる福井川流域に形成された標高100メートルにある洞窟の遺跡。発掘調査では、細石器や縄文土器が見つかり、縄文土器の中でも隆起線文土器(りゅうきせんもんどき)は、泉福寺洞窟の豆粒文土器(とうりゅうもんどき)の発見まで、日本最古の土器でした。主に石器を用いた旧石器時代から土器が出現し縄文時代へ変化する過渡期(かとき)を知る上で貴重な遺跡です。 |
|
所在地:長崎県南島原市北有馬町 指 定:国指定史跡
|
|
島原半島の普賢岳(ふげんだけ)から連なる標高250メートルの場所に支石墓群はあります。発掘調査では約60基の墓地が発見されています。墓地は、甕棺墓(かめかんぼ)、石棺墓(せっかんぼ)、穴を掘っただけの土壙墓(どこうぼ)の上に支石と蓋石(ふたいし)を被せた支石墓で、朝鮮半島の形態と類似点が多くみられます。この遺跡は、縄文時代の終わり頃に大陸との交流を物語る重要な遺跡です。 |
|
|
大野台支石墓群(おおのだいしせきぼぐん) |
所在地:長崎県佐世保市鹿町町 指 定:国指定史跡
|
|
鹿町川流域に形成された標高70メートルの台地上に支石墓群はあります。
発掘調査では2群に分かれた墓地に46基の支石墓が発見されています。支石墓は、大陸の影響を受けた墓地の形態で、西北九州地域に多い墓地の形態です。
長崎県内には、他に原山支石墓群(はらやましせきぼぐん)や里田原遺跡(さとたばるいせき)などが発見されています。縄文時代から弥生時代に移行する時期における大陸との交流を物語る重要な遺跡です。 |
|
所在地:長崎県壱岐市芦辺町・石田町 指 定:国指定特別史跡
|
|
原の辻遺跡は、中国の歴史書「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)に記された「一支国(いきこく)」の王都と特定された弥生時代の遺跡です。発掘調査では、日本最古の船着場跡が発見されたのをはじめ、大陸との交流を物語る数多くの遺物が見つかっています。中でも、馬車に取り付けられた部品や機械じかけの弓(弩=ど)に用いられる矢の先に付けられた三翼鏃(さんよくぞく)、中国の貨幣等は、大陸との交流を物語る代表的な遺物です。 |
|
|
塔の首遺跡(とうのくびいせき) |
所在地:長崎県対馬市上対馬町 指 定:国指定史跡
|
|
対馬の最北端に位置し、韓国に最も近い長崎県の遺跡です。発掘調査では、箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ)4基が発見されています。石棺内からは、広形銅矛(どうほこ)、方格規矩文鏡〔青銅鏡〕(ほうかくきくもんきょう)、銅釧〔腕輪〕(どうくしろ)、約8,000点のガラス小玉が見つかっています。また副葬品として弥生土器と韓国の土器が一緒に見つかっており、日韓交流を顕著に示す重要な弥生時代の遺跡です。 |
|
|
曲崎古墳群(まがりざきこふんぐん) |
所在地:長崎県長崎市牧島町 指 定:国指定史跡
|
|
長崎市の東部にある橘湾(たちばなわん)に浮かぶ牧島に古墳群はあります。
発掘調査では、小さな横穴式石室の上に石を積み重ねた積石塚(つみいしづか)が約100基発見されています。石室内からは副葬品(ふくそうひん)のガラス小玉や碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)をはじめ、土師器や須恵器が見つかっています。国内では数少ない積石塚の形態をした古墳がまとまって造られている代表例です。 |
|
|
矢立山古墳群(やたてやまこふんぐん) |
所在地:長崎県対馬市厳原町 指 定:国指定史跡
|
|
佐須川(さすがわ)流域に形成された標高30メートルの微高地に3基の古墳があります。方形の壇上(だんじょう)に造られた7世紀代の古墳で、石室は長方形の割石を積み重ねた積石塚の形態をしており、畿内(きない)と密接に関連していたものと思われます。また1つの入り口から石室の中が2つに分かれる「T」字状の石室は、国内の古墳では珍しい形をしています。石室内からは、銅鋺(どうわん)や金銅製太刀(こんどうせいたち)等が見つかっています。 |
|
|
根曽古墳群(ねそこふんぐん) |
所在地:長崎県対馬市美津島町 指 定:国指定史跡
|
|
対馬の中央部東海岸に位置し、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)3基、円墳2基の計5基で構成された古墳群です。ともに浜石を積み、石棺形の石室なのが特徴で、石室内からは、鉄鏃(てつぞく)、鉄刀(てっとう)、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)が見つかっています。隣接(りんせつ)して築造されている畿内系の前方後方墳の出居塚古墳(でいづかこふん)に後続して造られた古墳群で、畿内の影響が対馬まで及んでいたことを示す貴重な古墳です。 |
|
|
金田城跡(かねだじょうあと) |
所在地:長崎県対馬市美津島町 指 定:国指定特別史跡
|
|
入り組んだ地形の浅茅湾(あそうわん)に面した標高275メートルの山頂を取り囲むように築かれた朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)です。
自然の断崖絶壁(だんがいぜっぺき)を利用して、尾根に沿って石で城壁を巡らした形式で、先行して造られた大野城、基肄城(きいじょう)と同一の形のものです。663年の白村江の戦いに敗北し、新羅の日本進攻を防ぐ最前線の防衛基地として667年に築かれました。 |
|
|
ホゲット石鍋製作所遺跡(ほげっといしなべせいさくしょいせき) |
所在地:長崎県西海市大瀬戸町 指 定:国指定史跡
|
|
西彼杵半島の標高約120メートルの切り立った山地の山頂から斜面で発見された滑石製石鍋(かっせきせいいしなべ)製作所跡です。山地に切り立った岩壁には、石鍋の原料である滑石の層が露出(ろしゅつ)しており、原型となる粗形(そけい)の滑石を削り落としながら、石鍋を製作する過程が遺跡からよくわかります。滑石製石鍋の生産地の様子と国内の流通経路を知る上で貴重な中世の遺跡といえます。 |
|
|
金石城跡(かねいしじょうあと) |
所在地:長崎県対馬市厳原町 指 定:国指定史跡
|
写真:対馬市教育委員会提供 |
金石城は、対馬の南部に位置し、背後は山が覆い、南側は金石川が流れる自然の地形を利用した平城(ひらじろ)です。享禄元(1528)年に築造されて、桟原(さじきばら)に建てられた新たな府城(ふじょう)ができる延宝6(1678)年までの約150年間、対馬藩を治めていた宗家(そうけ)の居城(きょじょう)として使われました。また文化8(1811)年の朝鮮通信使の来島時には、建物を一部増築して宿舎として用いられました。なお、発掘された庭園遺構は、「旧金石城庭園」として国の名勝に指定されています。 |
|
|
清水山城跡(しみづやまじょうあと) |
所在地:長崎県対馬市厳原町 指 定:国指定史跡
|
|
対馬の厳原港を見下ろす清水山の山頂、標高206メートルのところに築かれた城跡です。城は、天正19(1591)年に豊臣秀吉の朝鮮出兵時に毛利高政(もうりたかまさ)が築城しました。
清水山城は、肥前名護屋城の本陣から朝鮮出兵の足がかりとなった釜山城(ぷさんじょう)間を結ぶ物資や人兵(じんぺい)の兵站基地(へいたんきち)として用いられました。壱岐にも同様の機能の城として勝本城が築かれています。 |
|
|
勝本城跡(かつもとじょうあと) |
所在地:長崎県壱岐市勝本町 指 定:国指定史跡
|
|
海上交通の要所であった壱岐北部の勝本、標高80メートルの丘陵上に山城はあります。築城には、松浦鎮信(まつうらしげのぶ)をはじめ、大村喜前(おおむらよしあき)、五島純玄(ごとうすみはる)、有馬晴信(ありまはるのぶ)らが支援し、天正19(1591)年に完成しました。完成後は豊臣秀吉の弟秀長(ひでなが)の家臣本多正武(ほんだまさたけ)が入城し、7年後の慶長3(1598)年に取り壊されました。 |
|
|
平戸和蘭商館跡(ひらどおらんだしょうかんあと) |
所在地:長崎県平戸市崎方町・大久保町 指 定:国指定史跡
|
|
島の北東部にある平戸港に面した海岸沿いに商館跡はあります。慶長14(1609)年の和蘭(おらんだ)船の入港に始まり、寛永18(1641)年の長崎出島に商館が移転するまでの約33年間、この地に日本で唯一のオランダ貿易港と商館があった場所です。発掘調査では、防波堤をはじめ、大型石造倉庫跡 2 棟を中心とする10数棟の建造物跡(けんぞうぶつあと)が発見され、海外交流の拠点であったことが判明しました。 |
|
|
肥前波佐見陶磁器窯跡(ひぜんはさみとうじきかまあと) |
所在地:長崎県東彼杵郡波佐見町 指 定:国指定史跡
|
|
波佐見町は、16世紀末に陶器の生産が開始されて、現在に至るまで三川内(みかわち)・有田に並ぶ窯場として有名です。現在、近世から近代までの窯跡36基が確認されています。中でも全長160メートルを超える登窯は世界でも類を見ない長さを誇ります。製品も初期段階の「波佐見青磁(はさみせいじ)」や、江戸後期に国内で大量に流通した「くらわんか手」の簡素な磁器が知られています。 |
|
|
出島和蘭商館跡(でじまおらんだしょうかんあと) |
所在地:長崎県長崎市出島町 指 定:国指定史跡
|
|
出島和蘭商館跡は、長崎市街地の長崎港に面した海岸沿いにありました。平戸和蘭商館から移転された寛永18(1641)年から安政6(1859)年までの約218年間、鎖国下において国内唯一の海外貿易の拠点として扇形をした人工島の出島が使用されました。発掘調査では、出島内に建物跡や道路跡・石垣が発見され、貿易陶磁器(ぼうえきとうじき)やガラス製品・パイプ等の海外から持ち込まれた遺物が多く見つかっています。 |
|
|
日野江城跡(ひのえじょうあと) |
所在地:長崎県南島原市北有馬町 指 定:国指定史跡
|
|
島原半島南部に流れる有馬川の下流に築かれた平山城です。日野江城は、肥前西部最大の戦国大名であった有馬氏の居城(きょじょう)として築造されました。発掘調査では、宝篋印塔(ほうきょういんとう)などの仏教関連石塔を階段の敷石として用いるなど有馬氏がキリシタン大名であったことを象徴しています。また、九州では珍しい金箔瓦は、豊臣秀吉と友好関係にあったことを裏付ける資料です。 |
|
|
原城跡(はらじょうあと) |
所在地:長崎県南島原市南有馬町 指 定:国指定史跡
|
|
島原半島南部の有明海に面した海岸沿いに、県下最大の平山城(ひらやまじろ)が築かれました。原城は、元和元(1615)年の一国一城令(いっこくいちじょうれい)によって廃城(はいじょう)になりますが、寛永14(1637)年に起きた「島原・天草の乱」の籠城(ろうじょう)の舞台となった場所として有名な城跡です。発掘調査では、ロザリオ〔十字架〕や鉄砲の弾など「島原・天草の乱」の様子を知ることができる遺物が見つかっています。 |
|
|
旧島原藩薬園跡(きゅうしまばらはんやくえんあと) |
所在地:長崎県南島原市小山町 指 定:国指定史跡
|
|
島原半島の東部の島原市に薬園跡があります。島原藩主松平家の御薬園跡で、弘化3(1846)年に、薬草栽培をはじめ、嘉永6(1853)年に薬園として完成し、明治2(1869)年に廃止になるまで、約22年間使用されました。発掘調査では、段々畑になった薬草畑跡をはじめ「コ」の字型の石垣に囲まれた中に建てられた詰所跡(つめしょあと)と金庫跡、貯水槽と地下に掘られた石積みの貯蔵庫等が発見されています。 |
|
|
長崎県内の遺跡情報をもっと詳しく検索することができます。 |
|
tr>
|
|