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詳細情報表示領域 |
名称 |
長崎市東山手
長崎市南山手
旧円融寺庭園
温泉岳
石田城五島氏庭園
原の辻遺跡
金田城跡
シーボルト宅跡
出島和蘭商館跡
高島秋帆旧宅
小菅修船場跡
曲崎古墳群
長崎台場跡 魚見岳台場跡
ホゲット石鍋製作遺跡
旧島原藩薬園跡
原城跡
原山支石墓群
日野江城跡
吉利支丹墓碑
泉福寺洞窟
肥前波佐見陶磁器窯跡
平戸和蘭商館跡
大野台支石墓群
福井洞窟
勝本城跡
矢立山古墳
清水山城跡
対馬藩主宗家墓所
金石城跡
根曽古墳群
塔の首遺跡
崇福寺三門(楼門)
崇福寺鐘鼓楼
崇福寺護法堂
興福寺本堂(大雄宝殿)
眼鏡橋
旧グラバー住宅
旧唐人屋敷門
旧リンガー(弟)住宅
旧本田家住宅
崇福寺媽姐門
旧オルト住宅
旧羅典神学校
旧長崎英国領事館
旧香港上海銀行長崎支店
旧長崎税関下り松派出所
東山手十二番館
眼鏡橋
黒島天主堂
幸橋
旧五輪教会堂
主藤家住宅
頭ケ島教会
大浦天主堂
崇福寺第一峰門
崇福寺大雄宝殿
滝の観音
日本二十六聖人殉教地
花月
崇福寺媽姐堂
長崎金星観測碑・観測台
ケンペル,ツュンベリー記念碑
興福寺寺域
現川焼陶窯跡(田中宗悦の墓石1基 窯観音1基)
戸町番所跡4・5・6・7番石標柱
鉅鹿家魏之えん兄弟の墓
トードス・オス・サントス跡(セミナリオ及びコレジヨを含む)
烽火山のかま跡
国際海底電線小ケ倉陸揚庫
琴尾山烽火台跡
長与の寺屋敷跡五輪塔群
長崎甚左衛門の墓
西彼町のキリシタン墓碑(2基)
南蛮船来航の地
中浦ジュリアン出生の地
多以良の小佐々氏墓所
ド・ロ神父遺跡(救助院跡・いわし網工場跡)
川頭遺跡
諫早家墓所
大雄寺の五百羅漢
大村市今富のキリシタン墓碑
五教館御成門
大村藩お船蔵跡
長戸鬼塚古墳
まだれいな銘キリシタン墓碑
鬼の岩屋
小浜町土手之元のキリシタン墓碑(4基)
小浜町椎山のキリシタン墓碑
小浜町茂無田のキリシタン墓碑
南串山のキリシタン墓碑(3基)
加津佐町砂原のキリシタン墓碑(2基)
加津佐町須崎のキリシタン墓碑(3基)
円通寺門礎石
勤皇大智禅師大梅の塔
口之津町白浜のキリシタン墓碑
南蛮船来航の地
南有馬町吉川のキリシタン墓碑
北有馬町西正寺のキリシタン墓碑(3基)
北有馬町谷川のキリシタン墓碑
西有家町里坊のキリシタン墓碑
有家町中須川のキリシタン墓碑(2基)
有家町小川のキリシタン墓碑
有家町尾上のキリシタン墓碑
有家町力野のキリシタン墓碑(2基)
布津町キリシタン墓碑群
葭の本の窯跡
楠本端山旧宅と楠本家墓地土墳群 7基
佐世保市岩下洞穴
彼杵の古墳
川棚町のキリシタン墓碑
波佐見町のキリシタン墓碑群
鄭成功居宅跡
積徳堂跡
コックスの甘藷畑跡
中野窯跡
式内社志々伎神社跡
平戸の六角井戸
松浦党梶谷城跡
文禄の役松浦家供養塔
神ノ崎遺跡
里田原遺跡
江迎本陣跡
市ノ瀬窯跡
佐々町狸山支石墓群
直谷城跡
六角井
石田城跡
白浜貝塚
富江町・山崎の石塁
寄神貝塚
日島の石塔群
亀丘城跡
勝本城跡
文永の役新城古戦場
鬼の窟古墳
壱岐国安国寺跡
壱岐国分寺跡
弘安の役瀬戸浦古戦場
大塚山古墳
対馬藩お船江跡
対馬円通寺宗家墓地
東海の墓
興福寺山門
中島聖堂遺構大学門
聖福寺 大雄宝殿・天王殿・山門
興福寺三江会所門
興福寺媽姐堂
興福寺鐘鼓楼
清水寺本堂
伊王島灯台旧吏員退息所
出津教会
大野教会
本経寺大村家墓碑群 墓石78基・石燈篭481基
旧長崎税関口之津支署庁舎
雄香寺開山堂
旧野首教会
阿弥陀寺万日堂
山下家のもと蔵
旧松浦炭坑事務所 一棟
堂崎教会
明星院本堂
旧日新館門
椎根の石屋根倉庫
今屋敷の防火壁
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エリア |
長崎市東山手町ほか
長崎市東山手町ほか
大村市玖島郷字上小路505
南高来郡小浜町ほか
福江市池田町1番7号
壱岐郡芦部町・石田町
下県郡美津島町大字城山ほか
長崎市鳴滝町
長崎市出島町
長崎市東小島町
長崎市小菅町
長崎市牧島町
長崎市戸町3丁目
東彼杵郡大瀬戸町瀬戸羽出川郷字ドンクウ岩
島原市小山町4701ほか
南高来郡南有馬町
南高来郡北有馬町大字坂上下名字新田ほか
南高来郡北有馬町大字谷川名
南高来郡西有家町須川名松原240
佐世保市瀬戸越1丁目1571
東彼杵郡波佐見町村木郷畠原1343-2外
平戸市崎方町・大久保町
北松浦郡鹿町町深江免字南の股・字北平
北松浦郡吉井町福井免岩下
壱岐郡勝本町坂本触城越757
下県郡厳原町大字下原
下県郡厳原町大字厳原西里
下県郡厳原町大字厳原西里字金石・大字今屋敷
下県郡厳原町大字今屋敷670番1
下県郡美津島町大字鶏知
上県郡上対馬町大字古里字在所陽
長崎市鍛冶屋町7-5
長崎市鍛冶屋町7-5
長崎市鍛冶屋町7-5
長崎市寺町64
長崎市魚の町~栄町と諏訪町~古川町の間
長崎市南山手町3
長崎市寺町64・興福寺内
長崎市南山手町2
長崎市中里町1476
長崎市鍛冶屋町7-5
長崎市南山手町14
長崎市南山手町乙1
長崎市大浦町1番37号
長崎市松が枝町4番27号
長崎市松が枝町4番33号
長崎市東山手町12番6
諫早市高城町770-2
佐世保市黒島町3333番イ
平戸市岩の上町亀岡
福江市蕨町993-11
下県郡厳原町大字豆酘2752
南松浦郡有川町友住郷638番1
長崎市南山手町乙1
長崎市鍛冶屋町7-5
長崎市鍛冶屋町7-5
長崎市平間町間の瀬
長崎市西坂町
長崎市寄合町・丸山町
長崎市鍛冶屋町7-5
長崎市西山町2の252(金毘羅山
長崎市出島町・出島和蘭商館跡内
長崎市寺町64
長崎市現川町521,522
長崎市国分町30,37,39
長崎市西山町2-36
長崎市夫婦川町135
長崎市鳴滝町447
長崎市小ヶ倉町3丁目76-44
西彼杵郡多良見町佐瀬郷1880-17
西彼杵郡長与町丸田郷字中ノ原215
西彼杵郡時津町浜田郷小島田
西彼杵郡西彼町平原郷山口原1271
西彼杵郡西海町大字横瀬郷字町ノ辻
西彼杵郡西海町字御園2048
西彼杵郡大瀬戸町太以良郷字寺山2184
西彼杵郡外海町黒崎西出津郷2633
諫早市湯野尾町793-19
諫早市原口名字坤松山1116-2
諌早市富川町925の一部ほか
大村市今富町586の1
大村市玖島郷61
大村市玖島郷宇久島28-1ほか
北高来郡小長井町小川原浦名
島原市山寺名丙867
南高来郡国見町多比良高下名岩名丁351
南高来郡小浜町飛小字土手之元414
南高来郡小浜町飛小名椎山232
南高来郡小浜町木場東中島41
南高来郡南串山町荒牧名字門前甲2608の1
南高来郡加津佐町野田名字砂原付乙468の1
南高来郡加津佐町水月名須崎己2943
南高来郡加津佐町字天辺己255
南高来郡加津佐町字天辺己255
南高来郡口之津町名白浜2829の3
南高来郡口之津町西大屋名唐人町丙4089
南高来郡南有馬町吉川名字東田原甲805
南高来郡北有馬町西正寺名字肥田5495
南高来郡北有馬町谷川名字中屋敷第1の1753
南高来郡西有家町里坊名字切支丹丙1391
南高来郡有家町中須川名358
南高来郡有家町小川名280
南高来郡有家町尾上名
南高来郡有家町山川名1118
南高来郡布津町尾乙1370
佐世保市木原町587ほか
佐世保市針尾中町
佐世保市松瀬町1385-5
東彼杵郡東彼杵町宿郷字古金屋道上
東彼杵郡川棚町下組郷字平尾
東彼杵郡波佐見町野々川郷字大石の本1406
平戸市川内町1114
平戸市岩の上町1146
平戸市川内町602
平戸市山中町
平戸市野子町3172ほか
平戸市鏡川町6-2
松浦市今福町東免2288
松浦市今福町東免390
北松浦郡小値賀町黒島郷字庭ノ畑2番1
北松浦郡田平町里免字大田239の3ほか
北松浦郡江迎町長坂免209番地
北松浦郡佐々町鴨川免351
北松浦郡佐々町松瀬免松瀬116
北松浦郡吉井町直谷免橋山
福江市江川町5-12
福江市福江町19番(居住表示福江市池田町1番1号)
福江市向町2443の11
南松浦郡富江町岳郷
南松浦郡岐宿郷寄神
南松浦郡若松町日島郷字曲12番及び字釜崎281番地
壱岐郡郷ノ浦町本村触字大里683
壱岐郡勝本町坂本触城越757
壱岐郡勝本町新城東触
壱岐郡芦辺町国分本村触
壱岐郡芦辺町深江栄触546
壱岐郡芦辺町国分本村触
壱岐郡芦辺町箱崎大左右触
壱岐郡芦辺町深江栄触
下県郡厳原町大字久田字白子4-1
上県郡峰町大字佐賀字寺ノ前572
長崎市夫婦川町・春徳寺境内
長崎市寺町64
長崎市寺町64・興福寺内
長崎市玉園町3-77
長崎市寺町64
長崎市寺町64
長崎市寺町64
長崎市鍛冶屋町8-43
西彼杵郡伊王島町大字伊王島
西彼杵郡外海町大字黒崎西出津郷
西彼杵郡外海町大字神浦下大野郷
大村市古町1丁目63
南高来郡口之津町名字琴平甲16番7
平戸市大久保町字管牟田又2169番地
北松浦郡小値賀町野崎郷東平692番地第1
北松浦郡小値賀町笛吹郷1512番地イ
北松浦郡江迎町長坂免長浜208
北松浦郡世知原町栗迎免83の5
福江市奥浦町堂崎
福江市吉田町1905
下県郡厳原町大字中村642
下県郡厳原町大字椎根字浦原689
下県郡厳原町大字今屋敷705-1
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紹介文章 |
長崎市東山手・南山手地区は,安政5 年(1 8 5 8 )の5 カ国修好通商条約により設けられた長崎の開港場の旧居留地内にあり,東山手地区は,大浦の商館と港を見下ろす高台に位置し,領事館や礼拝堂,住宅などが立ち,現在は,これらの跡地にミッション系の学校が建てられている。
長崎市東山手・南山手地区は,安政5 年(1 8 5 8 )の5 カ国修好通商条約により設けられた長崎の開港場の旧居留地内にあり,東山手地区は,大浦の商館と港を見下ろす高台に位置し,領事館や礼拝堂,住宅などが立ち,現在は,これらの跡地にミッション系の学校が建てられている。
天台宗円融寺は承応元年(1652)大村藩22 代純長公が創建したが,明治元年廃寺となり,その跡地に護国神社が創立されたので庭園その他の遺構は残った。
温泉岳は,山岳の中心をなす普賢岳・国見岳・妙見岳はもとより,野岳・矢岳・高岩山・絹笠山をふくみ,古湯・新湯・小地獄の噴湯や地獄地帯,稚児落の滝や一切経の滝,白雲の池の風致をも指定地の中にとりこむ。
石田城は,北海道松前の福山城とともに最も新しい大名城郭で,邸宅と庭園は,石田城二の丸の西南端に造られている。
原の辻遺跡は,弥生時代を中心とする大規模な多重環濠集落であり,中国の歴史書『魏志倭人伝』記載の「一支国」の王都として特定された極めて重要な遺跡である。
浅茅湾の南辺にあり,天智天皇の6年(667)に築造された対馬国金田城の跡である。
出島にきたシーボルトの令名を慕って集まる学徒や診療希望者が多かったので,長崎奉行は鳴滝に塾舎をかまえ,出張教授することを許した。その宅跡である。
寛永1 3 年(1 6 3 6 )幕府はキリスト教の宣教をおさえるため,市中のポルトガル人を一定の域内に住まわせるため,1 3 ,0 0 0ヘーホーメートルの扇形の人工島を構築したのが出島である。
幕末の砲術家として有名な長崎町年寄,高島四郎太夫秋帆の宅跡である。
レールの上に滑台を置き,満潮を利用して船を乗せ,捲上げ小屋に設置してあるボイラー型蒸気機関の力で引上げる。
橘湾海上に浮かぶ牧島の東部,嘴状礫丘に位置する古墳時代後期の積石塚群である。
幕府は寛永1 6 年(1 6 3 9 )鎖国令を出すと同時に長崎港の警備を厳重にするため西泊,戸町,大田尾などに台場を築かせたが,文化5 年(1 8 0 8 )のフェートン号事件に刺激をうけ,同年新たに女神,神崎などに新台場を構築し,更に同7 年(1 8 1 0 )には増台場として神崎,高鉾,長刀岩,魚見岳に台場を築いている。
石鍋は,鎌倉時代の西日本に広く流布した煮たき用の厨房具である。
島原藩主松平家の御薬園跡。
原城はもと志自岐原城といわれ,日野江城(北有馬町)を本居とする有馬氏の支城であった。
島原半島の南西部,雲仙岳に連なる標高250mほどのなだらかな高燥地にある。
日野江城は,経澄が建保年間(1213 ~1219 )に築城したと伝えられるが,実際は南北朝頃の構築であろう。
キリシタン墓碑の中でも最も美しい形をもった半円柱蓋石型。
後期旧石器時代から平安時代まで長期間利用された洞穴遺跡。
波佐見町は,16世紀末に陶器生産が開始されて以来,現在に至るまで有田・三川内と並ぶ窯業地として発展してきた。古窯の数の多さや,保存状況が良いこと,世界に類を見ない全長160mを越える窯がするなど価値が非常に高いと評価されている。
慶長14年(1609)和蘭船2隻が入港し,寛永18年(1641)長崎出島に移転するまで約33年間,平戸はわが国唯一のオランダ貿易港であった。
支石墓は大陸文化の影響を受けて,縄文時代晩期から弥生時代中期にかけて作られた墳墓で西北九州に多く分布する。
福井川南岸に開口した間口12m,奥行8mの洞窟遺跡。
風本城・武末城・雨瀬包城ともいう。
厳原町の西海岸,小茂田の集落に注ぐ佐須川の右岸に2基の円墳がある。矢立山1・2号墳であり,径20mほどの円墳である。
清水山の頂上に一ノ丸,東の屋根の先端に三ノ丸,その中間の段に二ノ丸と称する三段の曲輪があり,その間石垣が断続し全長約500m,中世風の山城である。
清水山南麓の宗家の菩提寺である天台宗万松院を中心に,山腹の宗家歴代の墓地を含む広大な地域である。
金石城は,山を背にした平城で,南側を堀の役割を果たしていた金石川が流れている。
対馬の中央部東海岸, 鶏知浦に面した海岸台地にある古墳群で,前方後円墳3基,円墳2基からなる。
上対馬町比田勝港の北東,西泊湾をのぞむ低い旧岬上にある弥生後期の墓地で,箱式石棺4基からなる。
唐土切組み唐工匠により建立された諸殿堂門の多い寺内で,最も中国趣味の濃厚なこの門は,実は日本人工匠の手になるもので,建立年代も最も新しいという意外性を持つが,今では崇福寺の象徴となっている。
上階に梵鐘を吊り太鼓を置く。当寺の鐘楼はもと重層六角円堂で,書院前庭の南隅にあった。
享保1 6 年(1 7 3 1 )の建立。軸部は明らかに唐工匠の製作であるが,屋根回りは日本寺院風の様式で,日中工匠の合作かと思われる。
中国江西省出身の劉覚(のち真円)が元和9 年(1 6 2 3 )のころ渡来,当地に小庵を結び,南京地方出身唐商が中心となり,真円を開基とする一寺を創立したのが当寺である。
興福寺開山唐僧黙子如定が寛永1 1 年(1 6 3 4 )に架けたと伝えられる。2張間の半円迫持(せりもち)橋で、長崎最初のアーチ構造の伝来とされる。
英人トーマス・ブレイク・グラバーは安政6 年(1 8 5 9 )9 月上海から長崎に来て,グラバー商会を設立し貿易に従事した。年代の明らかな木造洋館として日本最古の遺構である。
旧唐人屋敷内の元唐人番の末孫宅に遺存していたこの門は,早くから唐人屋敷二の門遺構として注目されており,昭和2 4 年重要美術品唐人屋敷二の門として認定を受けたが,火災等の危険からみて,現地保存は適当ではないので,長崎市がこれを買収し,昭和3 5 年興福寺境内の現在地に解体移築復元された。
英人フレデリック・リンガーの長崎渡来の時期は不明であるが,元治元年(1 8 6 4 )にはその名がみえる。
俗に田の字型と呼ぶ,わが国農家の基本型は,東半分が作業部分の土間,西半分が居住部分の田の字型に仕切られた四室から成るが,その四室の土間寄りの二室の間仕切を除いて一室とした,いわゆる三間取りの平面をもつ,県下最古の遺構と考えられている。
独立した媽姐堂自体が珍しいのに,その門があるというのは,これが唯一の遺例である。
英人オルトの長崎渡来と長崎退去の時期は明らかではない。
大浦天主堂を完成させ,浦上に旧信徒の存在を知ったプチジャン神父は,明治6 年明治政府の禁教令廃止を契機として,長崎にラテン神学校を設立することを計画し,明治8 年完成した。
安政5 年(1 8 5 8 )日英修好通商条約が締結された後,長崎は開港場として自由貿易が開始され,英国領事館が開かれて外交事務が始められた。
香港上海銀行は,明治2 5 年長崎に支店を開設した。現在の社屋は下田菊太郎の設計によって明治3 7 年に完成した。
長崎港は,元亀2 年(1 5 7 1 )にポルトガル船が入港して以来,外国との貿易港として栄え,鎖国時代も我が国唯一の外国との窓口として開かれていた。開港後も貿易港として重要な位置を占め税関がおかれていた。
東山手十二番館は,明治元年(18 6 8 )にプロシア領事館として建設され,その後,宗教団体の住宅となり,昭和1 6 年,団体から活水学院に贈与された。
本明川はしばしば氾濫して多くの橋を流したので天保9年(1838)堅牢な石造アーチ橋を架け,翌年完成。昭和31年県指定有形文化財。
黒島は,江戸時代にキリシタン弾圧を逃れた多数の信者が潜伏していた所である。明治30年(1897),マルマン神父がそれまでの小規模な木造教会堂に代わる新たな教会堂の建設の命を受けてフランスから来島し,その指示のもとで本格的な教会堂の建設が開始され,明治35年(1902)に竣工したのが現在の黒島天主堂である。
松浦公30代雄香棟が元禄15年(1702)に架けた石橋。
この建物は,浜脇教会の教会堂として明治14年(1881)頃建築された。昭和6年現地に移築し,五輪教会として使用された。
建築年代について,これを証する資料はないが,19世紀中頃の建築と推定されている。
頭ケ島教会堂は,明治43年に鉄川与助の設計・施工により着工し,7年の歳月をかけて大正6年に竣工した。
安政の開国後,長崎に渡来する多くの西洋人のために必要という理由で,幕府もその建立を認めざるを得なかったカトリック教会堂で,フランス人フューレ神父と,その志を継いだプチジャン神父の努力によって完成した。
創建年代は扁額により寛永2 1年(1 2 月改元正保,1 6 4 4 )ごろと推定されるが現存遺構は元禄7 年(1 6 9 4 )唐土寧波で切組み,翌年春唐船数隻に分載舶来し建立は元禄9 年以降という宮田安説が定説となった。
釈迦(大雄)を本尊とする仏殿。内部前柱刻銘により正保3年(1 6 4 6 )上梁の建築と考えられ,長崎市で現存最古の建物。
滝の観音は万治3 年(1 6 6 0 )黄檗木庵の法子鉄巌が禅堂を建て,寛文7 年(1 6 6 7 )に中国の富商許登授が現在の本堂を寄進した。
旧暦慶長元年1 2 月19 日(1 5 9 7年2 月5 日)豊臣秀吉の命によって,京都と大阪で捕らえられ歩いて長崎まで護送されたフランシスコ会の宣教師6 人,イエズス会のパウロ三木ら3 人,信徒1 7 人が磔形に処せられた場所である。
文政元年(1 8 1 8 )頃丸山遊郭の老舗であった引田屋の庭園内の一部を開いて茶屋(料亭)を新築し花月楼と称した。
媽姐は天妃・天后聖母・老媽・娘媽・菩薩など,いろいろの名がある。
記念碑は明治7 年1 2 月9 日,フランス科学院長の天文学者シャンサン氏一行6 名が,太陽面を通過する金星の観測に成功した喜びを記念するために,氏の要請を受けて山田与四郎氏が建てたものである。
文政8 年(1 8 2 5 )シーボルトが先任者のケンペル・ツュンベリーの学徳を讃えて建てたものである。
元和9 年(1 6 2 3 )長崎在留の唐人達がキリスト教徒でないことを証明するためと宗教行事を行う場所として創建したのが本寺の起りで,わが国最初の唐寺である。
諫早家「日新記」の記録によれば,元禄4 年(1 6 9 1 )に諫早家被官田中刑部左衛門が職務を退き二男甚内を伴って開窯したことが記され,寛延元年(1 7 4 8 )頃までのおよそ6 0 年間に渡って焼き継がれた陶器窯である。
寛永1 6 年(1 6 3 9 )幕府は長崎港警備のため筑前黒田藩,佐賀鍋島藩の2 藩に命じて港口の西泊,戸町に番所(陣屋)を設け隔年交替で勤務を命じている。
鉅鹿家は明の遺臣魏之えん(九官)を祖とする長崎在住の中国人の名門である。
トードス・オス・サントス(Todos os Santos )ポルトガル語で「諸聖人」の意。長崎で最初に建てられた教会である。
この烽火台は寛永1 5 年(1 6 3 8 )島原の乱平定後,長崎を巡視した松平信綱の命により築かれ,明治元年まで存続していた警報伝達機関の一つである。
明治3 年8 月2 5 日,わが国ではじめて外国の海底ケーブル陸揚権が認められ,デンマーク国の大北電信会社が明治4 年から同16年の間に,長崎~上海間2条,長崎~ウラジオ間2 条の長距離海底ケーブルを,日本最西端の長崎に陸揚げして以来約1世紀にわたる対外通信の役割を果たした。
大村藩郷村記にこの烽火台について次のように記載されている。
県下では古い年紀銘をもつ五輪の塔碑群で,現在寺屋敷跡約5a の地に数基残っている。
長崎開港当時の領主長崎甚左衛門の墓は,時津町小島田の寺創城山の東麓,路傍の立木の間に孤立している。
一基は花十字紋INRI 銘入り切石立碑で,ふくらみのある図柄の花十字紋は,県下の花十字紋の中でも特に美しいものである。
永禄5 年(1 5 6 2 )大村純忠の招きに応じて,ポルトガル船が横瀬浦に入港し,イルマン・ルイス・デ・アルメイダは教会を建て,純忠と契約を結んだ。
天正10 年(1 5 8 2 )大友,大村,有馬三侯の遣欧使節副使としてローマに行ったジュリアン中浦甚五郎のふるさとである。
小佐々氏は,永禄12 年(1 5 6 9 )大村純忠と後藤貴明・松浦鎮信らとの戦いに,純忠に従い参加した。
マルコ・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz )神父は慶応4年(1 8 6 8 )長崎へ渡来,大正3年長崎で歿するまで崇高なキリスト精神と不屈のフロンティア精神で社会福祉事業に貢献した人物である。
縄文時代早期および中期の遺跡で,多良山塊の中腹標高約260mの地にある。
諫早家初代家晴公より18 代家興公までの墓碑18 基と正・側室・子息の墓25 基,家臣30 基,一族の墓4基,雑塔56基,石碑5基,六地蔵4基,燈籠177基など1613年より1913年までに作られた墓碑群が比較的よくまとまっている。
諫早藩7代茂晴公は死者の供養と今後の災害防止祈願のため,本明川の上流富がわ川渓谷の地を開いて大雄寺を建立し,その壁面と川中の巨巌に503体の羅漢像を刻し宝永6年(1709)完成している。
カルワリオ十字紋入り半円柱蓋石型の伏碑を,底面を正面にした立碑にし,「天正四丙十一月十一日,不染院水心日栄霊,一瀬治部大輔」と碑銘を刻んでいる。
五教館の歴史は,22 代純長公が寛文10 年(1670)大村城郭内に文武の教育のために開設した集義館に始まる。
大村氏の居城玖島城に付属したお船蔵で,純長公時代(1624)に築造されたといわれている。
有明海に突出した標高約10mの丘陵先端部に築造された直径15m,高さ5mの円墳である。
伏碑を普通とするキリシタン墓碑中,類例の比較的少ないものの一つである。
島原鉄道多比良駅に西南2kmにあり,雲仙岳からのびる扇状台地の北端に立地する。
畑の中に叢林があり,その中にあった花十字紋入り半円柱蓋石型と無紋無銘の切妻蓋石型の2基は昭和2年に指定されていた。
笹田家の屋敷入口に祀られている小型のキリシタン墓碑で花十字紋入り半円柱蓋石型。
無紋無銘の台付たる型キリシタン墓碑。
南串山池崎地区の畑中にあったものを,竹下家裏庭に移していたが,昭和53年現在地に移して整備した。
加津佐町岩戸山の西方,野田浜海岸の松林の中にある2基で,1基は花十字紋入り扁平蓋石型で,花十字紋は正面の軸部に花十字の輪郭を刻んである。
加津佐は一時コレジョ,セミナリョの置かれたところでキリシタンゆかりの地である。
正平8年(1353)加津佐に来錫した大智禅師によって開かれた水月山円通寺の礎石である。
正平8年(1353)肥後の菊池一族を教化していた名僧大智禅師は,有馬澄世の招きを受けて加津佐に来錫し,水月山円通寺を開創した。
口之津港は永禄10年(1567)からポルトガル船が入港をはじめた南蛮貿易港の1 つで,宣教師の往来も多いキリシタンの町でもあった。
永禄6年(1563)有馬義貞の招きによって,イルマン・ルイス・デ・アルメイダが口之津に教会を始め,翌年の春トーレス神父はそこへ移ったので口之津は教会の本部となった。
無紋無銘のたる型キリシタン墓碑。
西正寺名字八良尾のミカン畑の一角の現在地に,4基のキリシタン墓碑を集めて整備している。
北有馬町谷川の共同墓地にある。
大正6年に畑の中から発見されたものを,畑の一角に積み上げてある。
有家町には現在までに23基のキリシタン墓碑が発見されており,うち6基が指定されている。
坂上家の外庭の一角にある花十字紋入り箱型で,中須川の箱型墓碑と同形同大で,花十字紋も同大の浮彫りである。
桜馬場の農道に面する石垣にはめこんであった,るいす銘入り扁平蓋石型のキリシタン墓碑。上部正面に「慶長十二年丁未類子三月二十四日」と縦書3行に刻んである。
桜馬場畑地石垣に使用していたものを,松島家の屋敷の一隅に移した2基のキリシタン墓碑である。
大崎名宮ノ本の共同墓地内に6基のキリシタン墓碑が南に面して置かれている。
一説には松浦鎮信が朝鮮出兵からの帰陣に際して同行した巨関の子,今村三之丞によって元和8年(1622)に開窯されたという,三川内地方で最も古い江戸時代前期の古唐津系陶器窯跡である。
平戸藩の儒者として著名な楠本端山(1827~1883)と弟碩水(1832~1916)の旧宅である。
相浦川をさかのぼる約9kmの左岸,標高約200mに位置する洞穴遺跡である。
長崎県の代表的古墳で,規模も県内最大級。全長51.8m,後円部の径29.5m,前方部の幅7.1mである。高さは後円部で6.2m,前方部で2.6m,主軸方向はN62°Wである。
下組郷字平尾の山林中にある。
ここの墓碑は,石工の手によらない粗雑な十字紋を陰刻しただけの自然石立碑で,台石もなく,すべて西に面して地面に立てられている。
室町時代の末,倭寇の活躍に呼応して中国の海商で日本の沿岸にもその寄港地を設ける者がいたが,その中でも五峰王直,鄭芝龍などは有名であった。
積徳堂は山鹿素行が浅草田原町で山鹿流の兵学や古学を教授した道場で,これを素行の孫山鹿高通(母は松浦鎮信公の娘)が延享2年(1745)平戸に移し以来明治維新にいたるまで約120年間平戸藩における学問兵学の中心道場となったところで平戸藩における多くの人材を輩出させた。
内地で最初に甘藷が植えられた畑であるといわれている。
日本最西端の古唐津系陶器窯跡である。
式内社志々伎神社は,志々伎山を中心にして上宮,中宮,地の宮,沖の宮の4社と別当寺(円満寺=現在の中宮社)の5つの社殿があり,祭神は仲哀天皇の皇弟十城別王である。
県指定の福江市の六角井とともに,井戸の型が六角であり倭寇関係,唐船貿易関係の遺跡として伝承されている。
松浦氏の居城跡で,勝谷城とも記す。その築城については,平安末,松浦久によるものとするが,その年代については,延久元年(1069)・嘉保2年(1095)・久安元年(1145)などの諸説があって一定しない。いずれにしても,松浦党の重要な居城で,古代末以来の山城として,相当長年月にわたって継続的に利用されたものとみられる。
文禄の役に今福松浦家より出兵し,朝鮮で討死した領主松浦定ほか7 名の将士を自然石板碑の供養塔を中央にして,右の定公の五輪塔,左に享和元年(1801)今福松浦家の忠之が建立した供養の長明塔がある。
遺跡は笛吹港に突き出た全長約60m,幅4m~15mからなる小さな岬上に位置する。
田平町内における国道204号沿線にあり,現水田面に支石墓が点在し,条里の跡をとどめている。
江迎本陣は,平戸藩主の参勤交代等の往路第一夜,復路最終夜の宿泊本陣として利用されてきた。
宝暦元年(1751)に開窯された磁器焼成の窯である。
佐々川中流西岸に近い微高地にある熊野神社境内にある支石墓群で7基が現存する。
直谷城は佐々川の支流,福井川の浸食作用によって西側を除く三方を削られた河岸段丘一つ,標高160mほどの内裏山山頂に築かれた山城である。
井戸枠を六角形に板石で囲み,井戸の中も水面下まで六角形の井壁が板石でつくられているので,ちょうど六角柱を地中にたてたような井戸である。
福江城ともいう。五島藩主五島氏の居城跡である。
福江市の南郊,同市向町海岸の砂丘に立地する複合遺跡。縄文時代後期遺跡包蔵地,同晩期貝塚,弥生時代前期貝塚が複合する。
富江町南部の低い溶岩台地上の海岸部に構築された砦状の遺構。
岐宿町北端の低平な溶岩台地上にある貝塚で,厚い貝層の堆積をもつ。
若松島の北西に位置する日島・曲地区の,海に向かって延びる礫丘部分全域にわたって,中世以来の石塔類が約70基分林立している。
亀尾城ともいう。鎌倉・室町・戦国時代における壱岐の最も中心的な平山城跡である。
風本城・武末城・雨瀬包城ともいう。
勝本町内には,とくに文永の役(文永11年1274)に関する伝承の地が少なくない。
壱岐島のほぼ中央,芦辺町の西辺にあり,壱岐循環線の北側にある。壱岐を代表する横穴式石室墳である。
足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石の勧めによって,平和を祈願し,元弘以来の戦死者の菩提をとむらうため,暦応元年(1338)頃から以後約10ヵ年にわたり,全国六十六国二島にそれぞれ一寺一塔をつくった。
壱岐島のほぼ中央部,芦辺町国分本村触中野の一角を占める一帯が壱岐国分寺の寺域と考えられている。
第二回の元軍の襲来のいわゆる弘安の役(弘安4年・1281)に際し,壱岐の瀬戸浦(芦辺町)は激戦の地であった。
県下で2番目に広い平野である深江田原を見下ろす標高72mの丘陵上に築造された直径14m,高さ2mの円墳である。
厳原港の南,久田浦に注ぐ久田川河口に構築された人工の入江に4基の突堤と,5つの船渠がある。対馬藩お船江の跡である。
対馬東岸の良港佐賀浦は,室町時代前期を通じて島府が置かれ,島主宗氏はこの地にいて全島を支配した。
東海氏の祖は浙江省紹興府の人で徐敬雲。元和3 年(1 6 1 7 )長崎に渡来,酒屋町に居住。
寛永9 年(1 6 3 2 )長崎に渡来した唐僧黙子如定が当時2 代住持となり,寺観大いに面目一新し,更に承応3 年(1 6 5 4 )隠元隆きを迎えて,殿堂房門が整ったが,寛文3 年(1 6 6 3 )市中の大火は当寺にも及び,一山ことごとく類焼した。
正保4 年(1 6 4 7 )儒者向井元升が後興善町に孔子廟と学舎等を設立,寛文3 年(1 6 6 3 )焼失,延宝4 年(1 6 7 6 )立山に再建し立山書院と称した。
この植物はツチトリモチ科の寄生植物で,葉緑素が全くなく,全体が黄色,または淡い黄褐色で,高さ1 0 ~15cm で一見キノコ類かと思われる。
当寺玄関書院が腐朽して復旧の見込みが立たなかったのでこれを解体し,その跡に三江会所を建てたのは明治1 4 年である。
唐人造立の興福・福済・崇福の3 福寺のうちで,草創は当寺が最も早いといわれるが,それは真円の小庵創立を当寺発祥とするからのようである。
寛文3 年(1 6 6 3 )市中の大火で,寺内殿堂みな類焼のあと,この鐘鼓楼は山門の翌年元禄4年(1 6 9 1 )に再建された。のち享保1 5 年(1 7 3 0 )重修。
崇福寺大檀越唐商何高材は崇福寺大雄宝殿を一手寄進し,正保3 年(1 6 4 6 )上梁したが,寛文6 年(1 6 6 6 )2 月高材6 9 歳で妻(日本人)を亡くし,この年榎津町の木橋を石造アーチ橋に改架し(寛政7 年1 7 9 5 崩流)また息子の兆晋・兆有と共に清水寺本堂の改築を寄進した。
伊王島灯台は,安政開国後諸外国の要求を容れ,品川台場・観音崎・野島崎などとともに建設された日本最初の近代式灯台の一つで,明治3 年6 月に完成した。
明治初期の洋風建築の伝来で,キリスト教神父の果たした役割は,長崎では特に大きい。
明治26 年(1 8 9 3 )ド・ロ神父の設計・施工で建築された教会。
慶長13年(1608)に菩提寺として本経寺を建立し,境内に大村家の墓所を開創した。
旧長崎税関口之津支署庁舎は,明治32年に建築されたもので,明治後期の大型木造洋館として全国的にも数少ない税関庁舎の遺構である。
雄香寺は,「俊林山雄香寺御建立書」によれば元禄8年(1695)松浦家雄香公棟が大島の古寺「江月庵」をここに移して,開いた寺院で,この開山堂も同じく元禄8 年に創建された。
旧野首教会は,明治41年に鉄川与助の設計施工により完成された旧野首カトリック教会堂で,創建時の原形がほぼ完全に保たれている。
万日堂は,江戸時代初期から小値賀を根拠地として鯨組(捕鯨業)等を展開した小田家の二代目当主・小田伝次兵衛重利(1671~1724)が自家の私堂として正徳6年(1716)に建立した念仏堂である。
山下家は街道筋にあって,藩主松浦公の宿泊の本陣に当てられていた。酒造は元禄年間(1688~1703)の創業という。
北松浦炭田の一つ,松浦炭坑の事務所として建築されたもので,明治45年と明記された設計図があり,明治末期大正初期の建築と考えられる。
西坂で処刑された26人の殉教者の1人,ヨハネ五島という五島出身の青年を記念して,日本26聖人殉教者聖堂と命名された。
寺伝によれば大同元年(806)僧空海が唐から帰朝の途次ここに参籠して明星院と名付け,文治3年(11 87)平家盛が宇久姓を名乗ってのちの五島家の始祖となって以来,五島家代々の祈願所であったという。
もと対馬藩主宗氏の中屋敷門であったが,幕末には藩校日新館に用いられた。
石屋根倉庫は,この地方独特のもので,米・麦及び雑穀・衣類什物と,それぞれ格納する部分が,内部で区画されている。
この防火壁は,江戸時代につくられたものである。
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